フランスを代表する作曲家、モーリス・ラヴェル。
代表作『ボレロ』は、当時の音楽的規則をあえて無視した非常に斬新な楽曲として、今日もなお世界中で愛され続けています。
『ボレロ』は1928年に初演されて以来、ほぼ一世紀が経った現在もコンサートホールの定番曲として君臨し、映画・テレビ・広告など多様なメディアに使われ続けています。
同じリズムと旋律を繰り返しながら、楽器の重なりと音量だけで壮大なクライマックスへと向かうその構成は、「音楽的ミニマリズムの究極形」とも評されます。
ラヴェルの音楽はスペインやロシアの影響、ジャズの要素、そして卓越した編曲技術が特徴であり、現代の音楽クリエイターの先駆けとも言える存在です。
印象主義の旗手ドビュッシーとしばしば並び称されながらも、その作風は対照的で、ラヴェルはより明晰な構造と職人的な完璧主義を追求し続けました。
「私はドビュッシーと同じ森を歩いているが、別の小道を選んでいる」という言葉が示すように、彼は常に独自の美学を持っていたのです。
ラヴェルの生い立ちと幼少期
ラヴェルは1875年3月7日、フランス南西部バスク地方の港町シブールで生まれました。
シブールはスペインとの国境からわずか数キロという場所に位置し、町にはスペイン文化とバスク文化が色濃く漂っていました。
父ジョゼフ・ラヴェルはスイス出身のエンジニアで、後に自動車レースの先駆者のひとりとなった人物です。
工学的な精密さへの愛好を持ち、その気質はそのまま息子モーリスへと受け継がれました。後にラヴェルが「時計職人」「宝石職人」と評されるほどの精緻な作曲技法を磨いたのは、こうした父の影響があったと考える研究者も多くいます。
母マリー・ドゥルタールトゥはバスク地方出身で、スペイン的な旋律やリズムを子守唄や民謡として幼いモーリスに聴かせました。
この母が歌ってくれたシブールの民謡にはスペイン的なムードが漂っており、これが後の彼の音楽性に大きな影響を与えることになります。
特に母との絆は生涯を通じて非常に深く、後述するように母の死はラヴェルの人生に取り返しのつかない喪失感を残しました。
生後3ヶ月でパリに移りましたが、音楽好きの父の勧めで7歳からピアノを、12歳から和声や作曲を学び始めました。幼少期のラヴェルはいたずら好きで社交的な少年でしたが、ひとたびピアノの前に座ると驚くほど集中し、その上達ぶりは教師たちを驚かせたといいます。
また、父が蒐集していた精巧なオルゴールや自動演奏機械に強い興味を持ち、「機械が奏でる音楽」への愛着がのちの作品にも反映されています。
たとえば1908年に作曲されたピアノ組曲『夜のガスパール』や、人形と機械仕掛けのオモチャが登場するオペラ『子供と魔法』には、そうした幼少期の記憶が息づいているとされます。
ラヴェル少年-パリ音楽院時代と挫折
ラヴェルは、13歳でパリ音楽院を目指し、入学試験を受けます。
この試験でラヴェルは優秀な成績を収め、1889年に入学を果たします。
音楽院の授業が始まる前年、奇しくもパリ万博が開催されており、音楽好きの少年ラヴェルにとってこの博覧会は強烈な体験となりました。
ガムランと呼ばれるジャワの打楽器アンサンブルや、ロシア民族音楽の演奏に触れ、西洋古典音楽とは異なる音階・リズム・音色の世界に強い衝撃を受けたのです。
この異文化体験は、後のラヴェルが既存の和声理論に縛られず、独自の音響世界を追求する姿勢の原点のひとつとなりました。
また音楽院への入学直後に、生涯の親友となるスペイン人ピアニスト、リカルド・ビニェスと出会います。
ふたりはすぐに意気投合し、互いの楽曲を弾き合いながら感性を磨き合う関係となりました。
ビニェスは後にラヴェルの初期ピアノ作品の多くを初演する重要な存在となり、ラヴェルが試作した曲をまず届ける相手は常にビニェスでした。
しかし当時のパリ音楽院は非常に厳格な制度で運営されていました。
各学年で賞を獲得できないと除籍される仕組みで、いかに才能があっても「審査員に認められる」演奏・作曲ができなければ居場所はありません。
そのルールに则ってラヴェルは学び続けましたが、彼の音楽センスは既存の理論の틀をはみ出すことが多く、また規則にこだわらない奔放な気質から遅刻を繰り返すこともあり、20歳のときについに一度除籍されてしまいます。
当時のラヴェルは「規則に従うことは出発点であって、目的地ではない」という考えをすでに持っていたとされ、和声の授業でも教師の示す「正解」に疑問を呈することがありました。退学処分はラヴェルにとって屈辱でしたが、同時に彼の独自性の証明でもありました。
フォーレとの出会いと「ラヴェル事件」
音楽を諦めなかったラヴェルは、1898年に再入学を果たし、ガブリエル・フォーレの作曲クラスに入学します。
フォーレはラヴェルの才能を高く評価し、積極的に貴族のサロンへ連れて行くなど後ろ盾となりました。
この頃、ラヴェルはパリの文化人・芸術家が集まる「アパッシュ(無法者たち)」と呼ばれる前衛的なサークルに参加します。
詩人、画家、音楽評論家などが集い、互いの作品を批評し合うこのグループは、ラヴェルの芸術観を大きく育てました。
名曲『亡き王女のためのパヴァーヌ』はこの時期にポリニャック大公妃に献呈されたものです。ゆっくりとした舞曲(パヴァーヌ)のリズムに乗せた哀愁漂うこの曲は、出版後すぐに大きな反響を呼び、ラヴェルの名はパリの音楽界に広まりました。
しかし保守的な音楽院院長テオドール・デュボワはラヴェルの革新的な和声感覚を嫌い、再び除籍処分を下します。この頃にはラヴェルはすでにパリの音楽界でその名が知られた作曲家でしたが、院内での評価は依然として低かったのです。
そしてさらに大きな事件が起きます。当時フランスの若手作曲家にとって最高の栄誉であったローマ賞への挑戦です。ラヴェルは1900年から1905年にかけて実に5回も応募しましたが、毎回惜しいところで受賞を逃し、ついに1905年、最後の応募では予備審査の段階で落選してしまいます。
これが大問題でした。ラヴェルはその時点ですでに『弦楽四重奏曲ヘ長調』などを発表し、国際的にも名声を得ていた作曲家です。
それが新人扱いの予備審査すら通過できないとは、どう考えても不当な判定でした。
この結果にフォーレ、詩人のロマン・ロラン、作曲家のサン=サーンスらフランス楽壇の著名人たちが一斉に抗議の声を上げ、新聞各紙もこぞって批判的な報道を行いました。
これが「ラヴェル事件」と呼ばれる大スキャンダルへと発展したのです。
世論の圧力を受けて音楽院の内部調査が行われ、審査が不正に操作されていた疑惑が浮上しました。
結果として保守派の象徴であった院長デュボワが辞任に追い込まれ、その後任にラヴェルの恩師フォーレが就任するという劇的な事態に発展しました。ラヴェル自身はついにローマ賞を受賞することなく終わりましたが、皮肉にも「ラヴェル事件」によってその名はフランス全土に知れ渡ることになりました。
独自の地位の確立と第一次世界大戦
その後ラヴェルは『鏡』(1905年)、そして難曲として名高い『夜のガスパール』(1908年)を次々と発表し、前衛的な作曲家としての地位を不動のものとします。
特に『夜のガスパール』は詩人アロイジウス・ベルトランの散文詩に着想を得た三部作で、第一曲「オンディーヌ(水の精)」の神秘的な水の表現、第三曲「スカルボ(小鬼)」の超高難度なパッセージは、ピアニストにとって最高峰の挑戦のひとつとされています。
さらに1912年、伝説的なバレエ興行師セルゲイ・ディアギレフの依頼を受け、バレエ・リュスのためにバレエ音楽『ダフニスとクロエ』を完成させました。
古代ギリシャを舞台にしたこの大作は、管弦楽の色彩感覚が頂点に達した傑作として高く評価され、二つの組曲として今日も頻繁に演奏されています。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ラヴェルは強い愛国心から軍への志願を申し出ました。
しかし体重47キロという小柄な体格が災いして兵士としての採用は認められず、何度も志願を繰り返した末に、1916年にようやくトラック輸送兵として前線へ赴くことになります。
東部戦線のガリツィア(現在のウクライナ・ポーランド国境地帯)で過酷な任務をこなしながら、彼は変わり果てた戦場の風景と人間の悲惨さを目の当たりにしました。
戦時中の1917年、最愛の母マリーが病に倒れ、ラヴェルが任務の合間に帰省した直後に亡くなります。
母の死はラヴェルにとって計り知れないほど大きな打撃でした。
「私の人生で最も大切な存在を失った」と語ったとされるほどで、以後の彼は深い孤独と内向きの感傷を音楽に込めるようになります。
母の死後、ラヴェルは生涯独身を貫き、独り深夜まで作曲に没頭する生活を続けました。加えて不眠症や慢性的な体調不良がこの頃から始まり、彼を生涯悩ませることになります。
また、戦時中に活発化した「フランス音楽防衛国民同盟」は、敵国ドイツ・オーストリアの作曲家(バッハ、ベートーヴェン、シューベルトなど)の音楽をフランスの演奏会から排除しようとする排外的な運動を展開していました。
ラヴェルはこれに強く反発し、参加を拒否します。「音楽に国境はない」という信念からでしたが、この判断により彼はしばらくフランス音楽界の一部から冷遇される時期を過ごすことになりました。シューマン、シューベルト、ブラームスを敬愛するラヴェルにとって、民族主義的な芸術排除は到底受け入れられるものではなかったのです。
管弦楽の魔術師と『ボレロ』
戦後、ラヴェルは自身のピアノ曲をオーケストラ用に編曲する作業に積極的に取り組み始めます。彼の編曲技術は当時の作曲家の中でも飛び抜けており、「管弦楽の魔術師」という称号はこの時期に定着しました。木管・弦楽・打楽器のそれぞれの特性を極限まで引き出し、「音の絵」を描くようなオーケストレーションは、現在に至るまで世界中の音楽学生が手本とするものです。
中でも1922年に完成させたムソルグスキーのピアノ組曲『展覧会の絵』のオーケストラ編曲は、現在ではオリジナルのピアノ版を超える知名度を誇るほどの傑作です。「プロムナード」の金管の響き、「キエフの大門」の圧倒的なフィナーレは、ラヴェルの編曲センスが遺憾なく発揮された瞬間です。
1928年にはアメリカへの演奏旅行を行い、ニューヨーク、ボストン、シカゴなど主要都市を回りました。
この旅行中にジャズと本格的に出会い、ハーレムのジャズクラブに通い詰めたとされています。
スウィングのリズムや即興的な表現に強く惹かれたラヴェルは「ジャズこそ現代音楽の宝庫だ」と語り、帰国後の作品にもジャズの影響を取り込みました。
帰国後の1928年、バレエダンサーのイダ・ルビンシュタインから新作バレエ音楽の依頼が舞い込みます。
当初ラヴェルはスペインの作曲家アルベニスの曲をオーケストラ編曲して提供するつもりでしたが、版権の問題でそれが叶わず、急遽オリジナル曲を書くことになりました。こうして生まれたのが『ボレロ』です。
『ボレロ』はスネアドラムの同じリズム型が曲の最初から最後まで刻み続けられるという、極めて特異な構造を持っています。
旋律はAとBの二つのみで、それが約18分かけて繰り返されながら、担当する楽器が少しずつ増え、音量がpppp(ごく弱く)からffff(極めて強く)へと積み上がっていきます。ラヴェルは「私はこの曲に音楽的な内容はほとんどない」と語っており、それは謙遜ではなく、あえて「繰り返し」と「音量の増大」だけを音楽の原動力とした実験的意図を示すものでした。本人はこれほどヒットするとは思っていなかったようですが、1928年11月22日のパリ・オペラ座での初演は聴衆を興奮の渦に巻き込み、瞬く間に世界的な大ヒットとなりました。
ラヴェル-晩年と最期
1929年、ラヴェルは二つのピアノ協奏曲をほぼ同時進行で作曲するという驚くべき挑戦を始めます。
一方は第一次世界大戦で右手を失ったオーストリアのピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインのために書かれた『左手のためのピアノ協奏曲』。
片手だけでオーケストラと対峙できる楽曲を書くという難題に、ラヴェルはジャズのリズムと深い抒情性を融合させることで応えました。
ヴィトゲンシュタインは当初この曲を気に入らず、「あまりにも難解すぎる」と批判的だったと言いますが、今日ではこの曲は20世紀ピアノ協奏曲の傑作として広く認められています。
もう一方の『ピアノ協奏曲ト長調』は1932年に完成し、自ら指揮しながらピアニストのマルグリット・ロンと各地を演奏旅行しました。
アメリカで体験したジャズの要素が随所に盛り込まれた、明朗で躍動感あふれる作品です。
しかし、1932年10月、パリ市内でのタクシー事故がラヴェルの人生を一変させます。
事故による頭部への衝撃が原因とみられる神経系のダメージにより、健康状態が急激に悪化しました。
言葉がうまく出てこなくなり、楽譜を読む力が衰え、頭の中では音楽が鳴り響いているのに、それを楽譜に書き留めることができないという、作曲家として最も残酷な症状が現れ始めました。
現在の医学的見地からは、この症状は「前頭側頭型認知症」の一種であったと考えられています。
記憶障害が進行する中、あるとき自分の代表作『亡き王女のためのパヴァーヌ』をラジオで耳にしたラヴェルが、同席していた人物に「これは誰の曲だ?美しい曲じゃないか」と尋ねたというエピソードは、多くの人の胸を打ちます。
自分が作った曲を自分のものとわからなくなってしまった作曲家の晩年の姿は、あまりにも哀切です。
友人たちや医師の勧めもあり、1937年12月、脳への手術が決断されました。手術は一定程度成功したものの、ラヴェルは術後に昏睡状態に陥り、そのまま意識が戻ることなく、1937年12月28日、62歳でその生涯を閉じました。
ラヴェルが残した作品の数は決して多くはありません。
しかしその一曲一曲は、妥協なき完璧主義と卓越した技巧によって磨き上げられた宝石のような傑作ばかりです。
「私は傑作を少ししか書かなかったが、それで十分だ」とも受け取れる彼の姿勢は、量より質を追い求めた芸術家の矜持そのものでした。管弦楽の色彩、リズムの多様性、異文化への開かれた好奇心、そして精密な職人技——モーリス・ラヴェルの音楽は、これからも時代を超えて聴き継がれていくことでしょう。